ブログ開設に当たって
今回、サーバー会社を改め、心機一転のブログスタートです。
先ずは、ブログのタイトルということで、「いつかダ・ヴィンチが降りてくる DaVinci’s Atelier & Works」となりました。
ダ・ヴィンチと言えば誰もが知る、あのルネサンスを代表する芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチのことです。博学多才で知られるダ・ヴィンチですが、特に現代では絵画芸術に於いて、世界的知名度と不動の人気を誇っています。代表作「モナリザ」はその象徴と言えるでしょう。
歴史的事実や作品の背景を知らなくても、「モナリザ」の素晴らしさだけは、幼い頃の私でも理解できていた気がします。それは実物を観なくても、教科書の挿絵でも十分に判るほどです。
何とも言えぬ奥深いその微笑みは、幼き私にとっては未知なるものそのものでした。
当初は、作品の素晴らしさよりも、ミステリアスで不可思議な作品ということに、惹きつけられた気がします。それを観ていると、私の頭の中は小さな願望でいっぱいになりました。
「芸術家になりたい!」という、今にして思えば、只々後先考えぬ無邪気な憧れだったと思います。

やがて中学、高校生頃になると、厳しい現実が「進撃の巨人」の壁のように、私の目の前に立ちはだかります。「芸術で食べて行けるのは、ほんの僅かだよ!」「おまえにはそれだけの才能があるのか?」と言ったいくつかの囁きが、威圧的とは言えないまでも、一定程度のプレッシャーとして感じられるようになりました。
この辺りから考え方は、現実味を帯びるようになります。みなさんは、その程度で諦めるのはチョッと早計と思われるでしょうが、本音は勇気がなかったのです。大学も無難な法学部に入り、気が付けばサラリーマン街道を歩んでいたのですから。
社会人になると、こうした芸術への憧れは、明確な断念ではなく自然消滅的に薄れていきました。そのため、音楽を聴いたり絵を嗜んだりと、完全に芸術分野と無縁になった訳ではありません。コンサートや絵画展へも折りを見て出掛けて来ました。心はもう「芸術を志すのではなく、楽しむ」という受け身の体制になっていました。

やがて、Windows95の出現です。世の中はIT、デジタルの時代へと緩やかに舵が切られて行きます。
私自身もその波に遅れまいと、ITの勉強を独学ではじめます。PC関連の雑誌や書籍、様々なアプリケーションソフトウェアを購入し操作を覚えました。そう!あの時は自分でも一番勉強したと思います。
必死だったハズです。だから「芸術への関心は何処へやら」だったのかも知れません。
CDをまったく購入しない時期が、2年ほどあったでしょうか。
音楽も、ジックリと聴く機会も次第に少なくなって行ったと思います。
それでも、芸術に対する思いは完全に消えた訳ではありません。このブランクの間に、人の営みには音楽をはじめ芸術という要素が不可欠だということを、大袈裟なようですが悟ります。絵画にしろ彫刻にしろ、そのような芸術作品を味わうことが、日々の生活を穏やかに、そして豊かにしてくれることに気が付くのです。娯楽の必要性も全く同じだと思います。

そう!知り合いの誰かが、持論としてずっと以前に言っていたフレーズを、時折思い出す事があります。
それは「人間誰しも一生のうちに傑作小説をひとつは書ける」というものです。
ある意味、この言葉に勇気付けられた時期が確かにありました。
しかし、今にして思えば、この言葉は間違いだったと思います。夢も希望もないコメントになってしまって残念ですが、小説はそんな甘いものではないハズです。
どんな分野でも、創作活動をするに当たってはセンスや才能が必要で、努力だけでは限界があると言われます。少なくとも芸術活動に於いては特にでしょう。ちなみに、私は小説家になりたいと思ったことは一度もありません。
ところで、私はここ十数年前から透明水彩を趣味のレベルでやっていますが、身内や知人からは「うまいネ!」と社交辞令を込めて褒められます。しかし、残念ながらそのレベルまでなのです。私の作品には、個性と言うかサムシングが欠けていると自分でも判るのです。しかしながら、どうにもならない、サムシングが何なのかが分からないのです。誰もが陥る永遠のテーマなのでしょう。
そんなとき何時も思うのは、我が身に「ダ・ヴィンチが降りて来てくれればなァ・・・」という弱音半分、神頼み半分の他力本願の泣き言です。前述したように、ダ・ヴィンチは私にとって幼少からの、「天才」「溢れる才能」の象徴であり憧れの存在です。そして、そんな都合の良いことが、いつか起きてくれるのではという淡い期待が、常に心のどこかにあって燻り続けているのです。今回のブログにもその思いが込められているのです。

さて、私のように歳をとると「昔は良かった」というフレーズが何かと多くなり、若い人たちから嫌われる訳です。彼らからすれば「昔は昔、今は今」ですから、その考え方も理解できます。ただ、「昔は良かった」の中にも、本当に「昔は良かった」こともあり、おしなべて否定することはできないと、私は常々感じています。
私の文章には「昔は良かった」を匂わせる部分が、これからも多々出て来るかと思いますが、昔の知恵は私たちにとって貴重な財産です。その中でも「ことわざ」の存在が重要です。そして何よりその「ことわざ」が空気のように社会に浸透していることが大切だと思います。そうした昔の知恵を絶やさず後の世に伝えてゆくことが、今を生きる私たちの役目だと思います。
昨今は、AIの驚異的な進歩普及で、私たちの生活は大きく変わろうとしています。私も少なからずその恩恵に預かっている一人ですが、AIの最重要課題はやはり「人間がやるべきこと」と「AIに任せること」の見極めだと感じます。そして人間が常にコントロールする立場にいることが大切だと思います。
最近ではすっかり耳にしなくなった、江戸時代の学者、貝原益軒の著書「養生訓」にある『腹八分目に医者いらず』なる「ことわざ」は、皮肉にも現代のAIに於ける問題解決に、最も相応しいヒント(教え)を与えてくれているように思います。現代社会は「行き着くところまで行かないと気が済まない」傾向が多分にありますから。最近の新聞やニュースでも、AIの開発者ら自らが、開発を自粛すべき旨の記事が載っていました。何事も「ほどほど」が肝心なのです。
そんな事を踏まえた上で、芸術の必要性と古き良き事を紹介できたらと思います。私は根っからの「ヘソ曲り」なところがあり、ものの見方がチョッと捻くれていると自他ともに認めるところですが、そんな視点で投稿が続けられれば幸いです。ついでに、私の水彩画の画力が上達できたらと願っています(笑)。
前述したように、すべては自分の努力が前提で、そこにサムシングが加わって初めて、人々を感動させる作品が生まれる訳です。一朝一夕にことが運ばないのが芸術活動ですから、「いつかダ・ヴィンチが降りてくる」ことを心の奥底で信じながら日々努力ですネ。
from JDA(ブログ管理者)